首相の面談記録がないのは当たり前? 政治ベルの記録を作らない政治に未来はあるのか

 
4月14日付の毎日新聞は個人的には出色だった。紙面では「首相の面談記録「不存在」 対省庁幹部一年未満で廃棄」「首相面談 メモご法度」と一面と社会面トップで大きく記事が出ている。オンライン版では部分的に読める。

首相の面談記録「不存在」 対省庁幹部、1年未満で廃棄
首相と省庁幹部の面談記録「不存在」 官邸1年未満で廃棄

少し取材に協力した案件だったのでコメントを使ってもらっていることもあり、ちょうど翌日の15日が大学での今年度最初の講義日で、かつアーカイブがテーマなので早速自己紹介をかねて記事を配り、これをネタに学生相手にも少し話をしてみた。少しは関心を持ってもらえたのかなあ。

毎日新聞の記事では、首相に各省庁幹部が面談した際の資料は、官邸では1年未満保存でどんどん廃棄し、面談の記録は作っていないことが情報公開請求でわかったとある。理由は、各省庁が資料の原本を持っており、官邸側で受け取るのは複製なので、原本(正本)が別にあるから、行政文書管理ガイドラインに定める1年未満保存文書に該当して、廃棄は問題がないというもの。面談の記録は、作らないのが礼儀であるのかのような小泉元首相の秘書官だった小野次郎氏の証言が記事にある。

日本の政治は記録による検証ではなく、「記憶」による検証しかできないことがよくわかる記事だ。こうした政治環境は、今の政権だからという問題ではなく、これまでずっとそうだったという話だ。だから、今の政権の問題として議論をすると、かえって何の問題解決にもならないことは肝に銘じておくべき問題でもある。

政治レベルの記録がない、あるい薄いという問題は、公文書管理法ができても変わっていないし、変えようとしていないと言ってよいだろう。官邸や大臣などの政務や国会議員の介入・働きかけなど、政治レベルの動向が記録されるのが当たり前だという政治でないと、実務レベルの職員がこうした記録を積極的に残そうとは思わないだろうし、残すと危ないということにもなりかねない。政治レベルの記録が公文書としてどう残るのかは、結局は政治レベルのありようの問題なのだ。

公文書管理は、モリカケ問題と自衛隊日報問題で注目されたが、これらの問題も本質的な部分は、政治レベルの動向や判断の記録がなく、かつそれをあいまいにすることに意味があるという政治文化と無縁ではないだろう。

モリカケ問題では、様々な公文書管理上の問題があり、制度的に解決しなければいけない問題も多くあった。それらを解決すべきであることは言うまでもないが、公文書管理の質は政府や政治の質が反映される問題であるので、公文書管理だけで解決できる問題ではない(このことについては、1年前にビデオニュースドットコムで話をさせてもらっており、以下で視聴可能なので、関心のある方はご覧ください。)。

ビデオニュースドットコム
政治の質が低いと公文書管理も情報公開も機能しない
https://www.videonews.com/commentary/180407-01/

モリカケ問題は、この公文書管理だけで解決できない問題を含むという点では、「解決できない問題」の方が実際のところは重たい。このレベルの公文書の扱いに大いに問題があったが、結局のところ、官邸や官房長官、首相秘書官など官邸の住人の動向に関する記録がなく、これらの人びとからの指示などの記録もないので、言った言わない、会ったか会っていないがいつまでも問題になった。

官邸の住人や政務三役は、その存在自体が権力であり、そのレベルに対する報告やそこからの指示などは、内容や軽重に限らず、その立場が指示した、報告を受けて了承したことが意思決定になっているので、政策方針や事務事業にすべからく影響を与えているに他ならない。だから、いつ、どのような報告を受けたのか、誰に会ったのか、何を言ったのかは、極めて重要な記録のはずで、それは官邸側で記録として残しておくべきだものだろう。

それは言い換えると、権限や権力は首相という立場についているのであって、首相になっている個人に与えられているものではない、という基本的な認識が政治にあるかという問題でもある。公文書管理の問題では、例えば個人メモという問題がよく議論されるし、何を記録に残すのかという判断が問題になるが、これもこの基本認識の欠如の結果ということができる。本来は、官邸の住人も政務三役も、もっと言えば公務員も、個人に権限が付与されているのではなく、その立場に付与されているのであるから、その立場として何をしているのかは、個人の問題ではなく立場に対する責任として記録を残すのが当たり前、ということにならなければならないところ、そうなっていないのが問題だと理解している。

毎日新聞の記事は、こうした今の政治や政府のありようを端的に示している。実態が明らかにされつつあることは大いに歓迎するところで、では次に何をするのかがとても重要だと思っている。モリカケ問題、防衛省日報問題に始まった公文書管理議論が政局含みで、政治的注目度が高いことが、かえって政治的・政府的教訓を政治主導で公文書管理のあり方に一部屈折して反映せてしまうことになった。

公文書管理にこれだけ注目が集まっているのだから、今こそ何とかすべきだし、何とかできるはずという意見もだいぶいただいた。しかし、この手の話は、顔の見える困っている人がいるという、深い共感のある問題では決してないので、政治的なパワーゲームをしても勝てないのは、経験則的に明らかだ。そういう中で、どう動くかを考えざるを得ないし、私たちのような組織は、継続してやり続けることで少しずつでも変えていくという発想で、物事の時間軸をみるので、世間感覚と合わなくなっているところもあるかもしれない。

ともあれ、公文書管理や情報公開は権力の生態と本能的なところでそもそも相いれないものがある。一方で権力が否定できないものでもあるので、政局的になると、合理性より失点に対する対症療法的なものになりがちだ。最悪なことにならないように、変えたことがどういうところにインパクトを与えるかを注意深く観察して、変な話にならないように努力するのが精いっぱいになってしまう。

今は嵐が去って、公文書管理についての議論のベースをより本質的なところに近づける努力をする必要がある。個人的には、2年前から言っていることは変わっていない。政治の質が政府の公文書管理の質に影響を与えるのだから、政治レベルの記録の問題に取り組む必要がある。

この間、少し知見のあったアメリカ、韓国についての情報収集をしてきたが、最近、イギリスの資料も見始めた。自分の仮説があり、それがどう他国の制度で位置づいているか、行われているか否かという、ほとんどリバースエンジニアリングのような作業になっている。こうしたことの積み重ねで考え方を整理し、かつ、どういう切り口だと本質的な問題が見えやすくなるかという論点を探してきた。ゆっくりだが少しずつ進み、もう少ししたら具体的に出しやすくなるところに来たので、もうひと踏ん張りだと思いつつ、ちょっと疲れても来たのでほどほどに行きます。(三木 由希子)

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