[ブログ]議論のスケールが小さくなったと嘆きたい気分にもなる森友文書改ざん問題



 この2週間、元から依頼されていた仕事がもろもろあってちょっと忙しい予定だったところに、森友文書改ざん問題が発生し、完全に首が回らなくなってしまった。本当は情報公開クリアリングハウスの会員向けのニュースを発行しなければならないところ、なかなか手が回らず申し訳ない感じ。このブログのような駄文はいくらでも書けるが、原稿となるとちょっと時間が必要。

 森友文書改ざん問題で公文書管理や情報公開の問題に再び脚光が当たり、どのように改ざん文書問題を見るべきか、ということをよく聞かれるので、私なりに話をしているが、実際のところ話したり書いたりしているのは、公文書管理や情報公開の制度の話が中心ではなく、その前提の部分が主だったりしている。

 そんなことを話したり書いたりしているのは、何で議論のスケールを小さくするんだ、と思うから。いつから、政府の不祥事や不適切な活動、問題が、権力構造や政府活動の構造的問題を大々的に論じるのではなく、公文書管理法や情報公開法への違法という文脈で論じたがるようになったのだろう。だからいつも、行政文書管理ガイドラインの改正とか、今回は罰則規定の導入とかの局地戦で議論になり、結局進んだようで形骸化、形式化が進んだような結末になる。でも、何かやった感じにされるので、政治と行政の関係や、責任構造の問題、政府の質と信頼性を確保するか、という大きな議論がどこかに飛んでしまう。

 この1年、いろいろな問題があったが、結局、前に進んだ部分もあるものの、本質的な議論は何一つできていない。いつからこんなスケールの議論と局地戦ばかりするようになったのだろうと思う。

 こんなことを私が言うと身もふたもない感じだが、私たちにとっては、公文書管理や情報公開の問題を論じるだけのものではないリアリティがある。実際に自分たちで使い、訴訟も10件以上行い、一次資料に当たって調査等をしていると、結局やっていることは公文書管理や情報公開の問題に取り組んでいるようで、政府活動の質や適正性、合理性をどう確保するかや、信頼性をどう確保するかということになる。そのために、情報公開請求を行ったり、公文書管理や特定秘密保護の制度や運用について合理的に一次資料から把握したり、局面を変える手段として訴訟したりしているわけだ。

 森友文書改ざん問題も、公文書管理や情報公開との関係で極めて深刻な問題がある。ここから例えば罰則規定の導入や、公文書管理の専門職や組織の拡充という話になりつつあるが、何がそれで解決されるのかよく考えた方が良い。これだと、スケールの小さい議論になるから。

 罰則導入は、懲罰感情は充足されるが、日常レベルで政府活動を十分に記録してもらわなければならないという課題に対して、どのような貢献をするのか。廃棄や改ざんに対する罰則だと、記録をしない方が安全という行動をもたらすだろうし、文書の作成をしなかったことを一定の要件で罰則の対象とすると、何を作らなければ罰則の対象になるのかを厳格な要件で定めることになる。それは、それ以外は作らなくても違法ではないという議論と表裏一体。公文書管理について違法かどうかを論じることが一般的に好まれる傾向にあるが、適切かどうか、妥当かどうかを行政組織の本質的に持っている責任や政治の責任から問われる部分も多い。物事には、犯罪、違法、脱法的、不当、不適切などいろいろな問題があり、公文書管理は脱法、不当、不適切といった問題を多く含んでいる。

 公文書管理の専門職や組織の拡充も、どのようなイメージを持っているのかと言えば、今のような状況で期待されているのは、ポリティカル・ファイトに近い。最近、アーキビストの草分け的な人に行き会い、思わず私が聞いたことは、「アーキビストって技術的専門職ですよね」ということ。その人は「もちろんそうです」と答え、続けて「制度や仕組みが整って初めてその技術が発揮できるものです」とも言った。

 私はとても合点がいったし、自分の理解はあまり間違っていなかったと思った。政治と行政の関係の中で起こっているさまざまな問題を、技術的専門職が解決するためには、ポリティカル・ファイトをその人たちがするということ。決まっているルールを専門的技術職が変えるのであれば、それは政治的合意形成を専門的技術職がするということ。文書の内容の質を専門的技術職が変えるのであれば、それは政府活動そのものに介入し、監察をするということ。それがアーキビストや公文書管理の専門機関の役割だというのが一般認識だったり、専門家の認識なのであれば、それは私の理解とかなり違う。

 制度改革は一歩間違うと

 専門家や専門職を入れる→それを機能させるための地ならしが制度面でも政治的にもなされていないので、本来の役割を発揮できない→行政とのかかわりが深くなるとその論理と同調する→導入時の期待値に対してあまり役に立っていないように見える→行政と一体的に見えてくる→いわゆる「御用」的な存在に見えてくる→専門家の信頼が低下する

ということになるか、

 第三者機関や第三者的な組織を設ける→機能や権限がたいがい不十分でかつ期待されるような役割を発揮しにくい→行政とのかかわりが深くなるとその論理に同調しやすくなるか、理解者になっていく→役に立っているように見えないので、別の第三者機関が必要という議論がされたりする→下手すると第三者機関マトリョーシカ状態になる

ということになってしまう。

 もともと、公文書管理や情報公開が政府の適正化を促すという一面はあるものの、その前提は政府が信頼される努力を具体的にしていることが、制度を機能させるためには必要というものでもある。この二つの制度が機能し得るような政府活動、政治と行政の関係、あるいは責任構造になっていないから、行政文書の扱いでさまざまな問題が顕在化している。だから、この二つの制度を直すときはどう直すか、どのような効果を期待するのかとともに、機能させるためにはその地ならしとして何を変える必要があるのかという議論が不可欠。

 公文書管理や情報公開に社会の片隅で取り組んで翻弄されている身としては、この議論ができないと本当に進んだ気がしないんだけどなといつも思う。(三木由希子)

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