こういう活動をしていてこういうことを書くのも何だが、思考停止に陥りやすいけどよく使われる言説からは、そろそろ卒業したいとつくづく思う。
卒業したいことの一つは、海外の状況はどうなのかという事例を引き出して、いかに日本がひどいか、問題があるかを批判し外国をうらやましがるということ。確かに実際にそうなので、海外の事例に学ぶことは多い。しかしもっと重要なのは、なぜそれが他国ではできているのかという構造や違いを理解し、では日本では具体的に何をする必要があるのか、何ができるか、という自分たちなりの解を見つけること。他人の庭の芝生は青く見えるという域を出ない海外の事例との比較は、思考停止と紙一重。問題のある政府を批判する「ためにする」議論になりがちで、自分たちの問題としてどうするかという解を模索する議論になっていないとも言える。
だから、この海外の事例は…という話は、個々の事例としてこんなにすごい、素晴らしいという話になりがちだ。実際には、システムとしては機能している部分もあるが総体的に見れば破綻気味の場合もあったり、しかしそれでもなぜうらやましいと私たちが思う状況が生まれているのかには、それなりの背景や状況があったりする。すべてが完璧に機能している制度やシステムはなく、適度ないい加減さが結果的に功を奏していたり、しかしだからシステムとしての評価を現地の人に聞くと、個々の事例では評価できても、システム全体としては機能不全と言われたりする。また、組織の構造や行動パターン、機能が違ったり、特定の人を守るのではなくエリート層の共有するシステムを守るために、何かを切り捨てて全体のシステムを守るというトレードオフがある程度されていたり、人々や情報を必要とする人の関心を満たす手段や方法が用意されていることで、一定の信頼を獲得していたりと、情報公開や公文書管理をめぐってもいろいろな風景が垣間見える。
二つ目の卒業したいことは、国連や他国から日本の問題を指摘されたり勧告をされて、やっぱり日本はだめなんだという批判から先になかなか進まない議論。問題があるは事実なので、それを真摯に受け止める必要はあるが、その指摘や勧告が瞬間的なキャンペーンツールにはなっても、問題に対する解を模索しなければ、政府が悪いで終わってしまう(実際にそうなんだけど…)。問題があることは百も承知をしているので、だからどうするかということを積み上げていくしかないが、それは結構地味で目立たないことで、批判よりわかりにくく、相手が悪く、相手が変わるべきで変わらないのが悪いという堂々巡りな他人事構図を出なければならないことになる。
3つ目の卒業したいことは、「専門家」が必要と単純化した議論だ。重要なのは、専門家が具体的に何ができるのか、どのような解を提供できるのか、何に貢献するものとして位置づけそれを実施する能力を持っているのかということだ。例えば、公文書管理には専門家が必要という議論をする中で、ではその専門家が何ができるのか、どのような貢献が具体的にできるのかがいまいちわからない。専門家は、自分たちのキャパシティを示すことで社会的支持を得ていくことも必要だと思うし、手段や技術を持っていることの社会的認知を進めなければ、専門家待望論という根拠のない雰囲気が生む根拠不明な期待値の先に待っているのは、下げ止まらない評価の低下かもしれない。第三者機関作るべきという議論の先に、作っても御用だ権限が不十分だ、役に立たないという議論が待っていて、結局何を獲得しているのかわからないことを散々繰り返しているのだから、単純な専門家待望論の先に待っていることは容易に想像がつくはずだと思うが、そうならないのが不思議。
ということで、なるべく単純化した議論からは卒業したいが、実質的なことに踏み込むと、「専門家」から「そういう議論の仕方をしていると行き詰まるから気を付けた方がよい」という親切な忠告を受けたりする。私ができることはたかが知れているのだから、それでとどまったら何もできないよと思いつつ、ありがたく拝聴はしておくことにしている。(三木由希子)