6月26日、国家戦略特区諮問会議の民間議員や特区自治体の首長などが記者会見をしたとのこと。報道を見ていて気になったのが、以下の部分。
気になったので、記者会見の該当部分を映像で確認したところ、記者からの質問に対して以下のような発言があったことがわかった。
そして、29日付の毎日新聞には以下の記事が。
どうも流れとしては、今回の加計学園の文科省文書問題の教訓としては、「きれいな記録」を作りましょうという方向にもっていきたいようだ。
国家戦略特区諮問会議の八田氏は外交交渉もそうだと述べておられるが、外交記録は、公式記録は別にして、交渉過程でお互いの国がどのように解釈・理解し記録しているかなどは、国同士が双方に見せ合って合意をして記録を確定させるなどはしない(むしろ、その何を記録しているのかが公になることを、外交交渉上の支障として不開示とする)ので、何を想定しているのか不明。解釈をすれば、省庁間の協議や議論は、外交交渉で言えば公式記録と同じレベルの記録以外残すべきではない、ということなのだろうか。
文科副大臣の示した方針も、基本的には上司がOKした「きれいな記録」を残し、それ以外は内容として共有すべきものであっても文書としては共有しない、という運用でもしようというのだろうか。
今回は、加計学園問題というものを前提に議論をしているが、一般論で言えば、内容を共有する必要がある情報であれば文書で共有しなければ、「口頭伝承」「言い伝え」のような行政運営をすることになる。その内容が不正確なら、本当のところは相手方の記録も出して何が妥当な解釈、あるいは理解なのかを調整していけばよいところを、「きれいな記録」だけ作るという方向に行くなら、それは本末転倒だ。結局、お互いに残してもよいと思う記録だけがきれいにされて残り、内部でも実際に何があったのかではなく何なら記録に残してもよいかという選択をしたきれいな記録だけが残ることになる。
加計学園の文科省文書問題は、文科省側しか記録が出てきていないので文科省文書にばかり注目が集まっている。そのため、その記録が正確か否かなどが議論されている。不正確な記録を良しとするつもりはないが、議論や協議の過程をどう理解するかは解釈が入るし、それを口頭で引き継がれるとさらに主語(誰が)があいまいになりやすいのも事実。複数の当事者の記憶を合わせて記録をする必要があるものもあるだろう。重要なのは、個人メモと行政文書の線引きではなく、説明責任を果たすためだけでなく、必要な情報の共有を妨げない仕組みだ。必要な範囲で文書を利用した結果「行政文書」になるものなのだから、線引きをはじめからするような話ではない。
その点でいえば、加計学園問題では、内閣府側の記録が一切出てきていないのが、本当が問題。内閣府や官邸は、記憶で文科省文書の正確性に疑問を呈し、自分はそんなことを言っていないと自称しているだけということになる。プレッシャーをかけるためにさしで話をする、という場面であれば、自称言っていないという人は、なぜ誰も入れずにさしで話したのかという点が重要。省庁間の協議であれば、複数の職員がいたのだろうから誰かは「個人メモ」を持っているはず。ただ、内閣府や官邸は、個人メモだと文科省文書を言うことで迷惑な話だとしたいのだろうから、個人メモは出せない、ということなのではないかと思う。
行政文書と個人メモを分けるという問題は、政府が加計学園の文科省文書問題から、最も自分たちにとって好都合な教訓を導き出し、それを実施しようという方針を示したということにもなりかねない。それは前向きな教訓ではない。(三木由希子)