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情報公開法を求める市民運動の活動

≪情報公開法を求める市民運動の設立≫

 1980年3月29日、「情報公開法を求める市民運動」の結成集会が開かれ、「知る権利」を具体的に保障する情報公開法の制定と情報公開の促進を目的とする市民団体としてスタートしました。

 情報公開法を求める市民運動の結成に至るまでの背景には、ロッキード事件などの政治腐敗・汚職や公費の無駄遣い、サリドマイド・クロロキンなどの薬害、道路建設などによる公害問題などの究明が、公務員の守秘義務や企業秘密を盾に情報の非公開を貫かれるという社会情勢がありました。さまざまなところで密室性が問題を生み、被害を拡大し、原因究明を妨げていた中で、情報公開非公開の壁を打ち破り、主権者である国民の手に情報をとりもどすために情報公開の公開を義務づけ、非公開の場合は争うことができる情報公開法の制定が強く求められていたのです。また、1979年11月には大平内閣と新自由クラブの政策協定(4項目)のなかに情報公開法制定が盛りこまれ、制定への機運が盛りあがっていた時期でもありました。

 このような中、1976年には日本消費者連盟が情報公開法の制定を提唱し、79年9月に自由人権協会が「情報公開法要綱案」を発表。同年11月に同協会により開催されたシンポジウム「情報公開制度を考える」をきっかけに、参加した市民団体を中心に情報公開制度の制定を実現するための市民運動結成の機運が盛り上がり、「情報公開法を求める市民運動」の結成に至りました。結成に先立っては、全国の住民・市民団体へ情報公開アンケートを実施し、情報非公開の実態を具体的に明らかにしました。このアンケートは、その後も幾度となく実施されました。

≪情報公開権利宣言・情報公開八原則へ≫

 市民運動結成後、『細かい法律論議より、まず情報公開の基本理念、考え方、知る権利を明らかにする「権利宣言」のようなものをまとめ、広く国民にアピールすべきである』(「情報公開」NO.2より)として、1980年6月に『情報公開権利宣言』起草小委員会が発足しました。その後、起草委員会が作成した情報公開権利宣言案・情報公開8原則について、同年12月の定例会で約150名の参加者を得て最終案が確認されました。

 そして、1981年1月の市民運動臨時総会で「情報公開権利宣言」「情報公開八原則」が採択され、市民運動の基本理念という共通の土台ができました。権利宣言・八原則は英訳され、ユネスコ・OECD・世界の主要機関・主要個人に協力要請文と共に郵送されました。

≪情報公開法・情報公開条例制定運動へ≫

 「市民運動」結成時の規約の目的には、「国民の知る権利を具体化し、情報公開法の制定をめざす」とあります。しかし、すでに79年から神奈川県・埼玉県では「情報公開準備委員会」、「県立文書館新館建設基本構想策定委員会」で公文書の公開基準が検討され、広島県府中町では情報公開条例が議員提案で議会に提出されるなど、情報公開の制度化の動きがありました。このような現状を踏まえ、81年3月の総会で条例制定にも取り組むことが確認され、規約中に「法律」と並んで「条例」の語が加えられました。

 国の方では、1980年に「文書閲覧窓口」が各省庁に設置され、1984年には総務庁に私的諮問機関の「情報公開問題研究会」の設置、1991年に「行政情報公開基準」が申し合されたものの、1994年まで法制定の動きは停滞を続けます。政治の世界でも、野党各党は独自に情報公開法案を作成し、議員立法として国会に提出をしては廃案を繰り返すという状況にありました。

 一方、国の法制化の動きの停滞を尻目に、自治体における情報公開制度の制定は82年4月の山形県金山町を皮切りに、その制定数を増していきました。その中で、「市民運動」は神奈川県・埼玉県・東京都などの条例制定の動きに対し、「報告書」や「提言」への意見表明や、「条例案」に対する意見書の提出など、積極的により良い条例を制定するための具体的な提案を行ってきました。また、各地の市民グループの学習会に講師を派遣したり必要な情報を提供するなど、地域の自主的な市民の活動をサポートしてきました。条例制定や改正の動きに対しても、出版物の発行、市民・議員・行政の三方向に対してセミナーの開催や講師の派遣などを通じて、積極的に多方面へ情報提供をしていました。

≪情報公開制度を使う≫

 制定自治体が年々増加していくとともに、「市民運動」はその運用状況の情報センター的な役割を担うようになります。その中で定例会として開催したのが「全国市民運動交流集会」です。途中から総会に合わせて「全国交流集会」として開催されるようになりました。

 この交流会は、各地の条例化の動きや条例を実際に利用している各地の市民から運用上の具体的な問題などが報告され、参加者の間で話し合う場として例年(84年~)開催されていました。交流会には全国各地から報告者が集まり、各地域の情報公開をめぐる問題が報告されています。また、例年、交流会に会わせて各地の個人や市民グループに対して「情報公開アンケート」を実施。こうしたアンケートなどを通じて、情報公開請求例と公開事例が日本全国各地から「市民運動」に集められてきました。このアンケート結果は、交流集会で資料として配布され、広く提供されてきました。

 また、各地での情報公開請求、そして不服申立てや裁判が増加するとともに、自治体間で公開状況に差が生じてきました。他では公開される情報が非公開となることで、市民が不要な不服申立てや訴訟を強いられる例も少なからずでてきました。「市民運動」は、全国各地の情報公開制度の運用・公開状況など事務局に集積された情報をもとに、情報公開を促進するため、請求者への情報提供やアドバイスを行ってきました。また、「市民運動」の集まりや主催や各地の市民グループの学習会で、情報公開制度の活用法や公開事例を紹介するなど、広く一般に対しても情報の提供に努めてきました。

≪立法化への確かな動き≫

 長らく停滞していた情報公開法制定の動きが、1989年の「消費税選挙」と言われた参議院選挙により前進を始めます。与野党が逆転した参議院を中心に法案作りが進められ、1993年6月に参議院で「行政情報公開法案」が野党6会派(社会・公明・民社・社民連・民革連・日本新党)により共同提案されました。そして、事態は1993年の政権交代という出来事によって大きく前進します。法案を提出していた野党6会派が、総選挙による自民党単独政権の崩壊により政権を担うことになったからです。参議院に提出されていた法案自体は総選挙により廃案となりましたが、法制定に向けた大きな転機になりました。

 細川政権下では、1993年12月に「情報公開法制定のためのプロジェクトチーム」が発足。翌年2月には閣議決定した「今後における行政改革の推進方策について」で、行政情報の公開に関わる制度について「本格検討」が明記されました。これを受けて3月に国会に提出された行政改革委員会設置法案の中に、「行政機関の保有する情報の公開に係る制度に関する事項を調査審議」することが盛りこまれました。

 さらに、94年6月に発足した村山政権では、その発足に先立つ自民・社民・さきがけの与党三党の政権合意の中で、行革委員会設置法案の一部を「行政機関の保有する情報を公開するための法律の制定その他の制度の整備に関する事項を調査審議する」と修正することが確認されました。また、「意見具申は、2年以内に行う」ことも明記されました。これにより、法制定という政府の方針が明確になり、情報公開法の制定に向けた動きが確かなものとなります。

 94年10月に設置された行政改革委員会の中に、95年3月、専門部会「行政情報公開部会」が設置され、2年以内の意見具申という時間的な制約の下、およそ週1回のペースで検討が行われ、96年11月に「情報公開法要綱案」が発表されました。その後、同年12月に行革委員会から政府に意見具申され、97年度中に法案を国会に提出することが閣議決定されました。

 「市民運動」は、設立当初から各地の市民団体などに対して「情報非公開アンケート」を実施するなどにより、政府の情報非公開の現状を具体的に示し、情報公開法の必要性を訴えてきました。また、91年に申し合わせされた「行政公開基準」を受けて「国の情報公開を考えるフォーラム」の開催や、その運用を検証するための「霞ヶ関情報公開ツアー」を実施するなど、不十分な国の情報公開を具体的に明らかにしてきました。また、93年2月にはシンポジウム「政治改革と情報公開」を野党6会派をはじめとする国会議員を招いて開催したり、情報公開法研究会を開催。情報公開法制定の機運の盛り上げをはかってきました。そういうさなかの政権交代でした。

 行政情報公開部会が始まってからは、情報公開条例を利用してきた市民の立場から意見書を提出した他、2度にわたるヒアリングの際には自治体における条例の運用上の実態・問題を具体的に情報提供し、立法化に際して留意すべき点を指摘してきました。要綱案は、自治体条例の規定のみならず、こうした解釈運用も参考にして作られました。

≪情報公開法案提出・成立へ≫

■要綱案から法案へ

 96年に公表された要綱案をもとに97年度中の法案提出が閣議決定されたため、次は法案提出の時期が焦点となりました。「市民運動」では、要綱案公表直後に要綱案の内容を検証するシンポジウムを開催し、より良い法律を早期に制定させるためには何ができるかを議論しました。そして、97年1月の情報公開法シンポジウムを皮切りに、各政党の国会議員を招いて情報公開法の論点についての意見を聞く会を、法案が提出されるまでの間に4回開催してきました。国会議員シンポジウム開催の狙いは、各党に法律の主要な論点についての見解を聞くだけでなく、法律の主要な論点の一つが「利用しやすさ」にあることを国会議員をはじめとした内外の人に知ってもらうことでした。

 同時に、独自に法案提出を準備していた野党に対しヒアリングを実施したり、情報公開法を担当する議員との懇談を重ね、野党の法案作成の動きに合わせて、積極的に政党に対して意見表明をしてきました。

 97年末にはすでに政府原案が新聞報道で明らかにされましたが、法案提出に向けての最終調整が始まったのは、2月末から始まった当時の与党三党(自民・社民・さきがけ)による「与党情報公開法制に関する協議会」の場で行われました。「市民運動」は、与党協議を担当していた議員に対して、主要な論点に対して情報公開条例の解釈・運用の実態を踏まえて具体的に情報提供をしてきました。また、1998年3月16日に開催した国会議員シンポジウムでは、与党協議さなかの社民・さきがけの議員の出席を得、与党協議の内容や議論の具体的な進み具合の報告を公開の場でしてもらいました。そして、与党三党の合意を経て、1998年3月27日、情報公開法案が国会に提出されました。

■法案審議と市民集会

 法案は、4月の終わりになってようやく衆議院本会議での趣旨説明が行われ、審議入りをしました。「市民運動」では法案審議入り直前から、ひんぱんに国会議員会館内で市民集会を開催することとなります。狙いは、利用しやすい情報公開法を早期に制定することを、国会のお膝元でアピールすることにありました。5月に入り衆議院内閣委員会で実質的な法案審議がはじまり、争点が出揃いつつある頃、国会が会期末を迎え法案が継続審議となりました。

■修正協議・成立へ

 そして、1998年7月の参議院選挙により、参議院での自民党の大敗という結果になり、政府案の対案を出している野党三党(民主・新党平和・自由党)と共産党、それに社民・公明・さきがけなどの足並みがそろえば、政府案の修正が可能な状況になってきました。これにより、政府案の修正が現実味を帯び、与野党間での修正協議がはじまりました。野党は、独自に提出していた法案にこだわらずに、野党統一で自民党に対して政府案の修正要求を提示。当初提示された修正案に自民党はゼロ回答をしていたものの、利用しやすい情報公開法とするための手数料と裁判管轄について譲歩し、衆議院での法案修正が実現しました。

 「市民運動」は、政治状況の変化から、当初の利用しやすい情報公開法を求めるため市民集会から、利用しやすい法律とするための政府案修正と早期制定という一見矛盾する内容を要望する市民集会へとその内容をかえていきました。また、12月、1月と法案の修正協議が停滞し、政府案の修正の実現だけでなく早期制定も危ぶまれる状況にありました。そんな中、「市民運動」は「市民公聴会」を国会議員会館内で開催し、政府案の修正と早期制定を求める意見をさまざまな市民グループを代表した人達が述べる機会を設け、情報公開法制定への機運の盛り上げをはかってきました。

 そして、参議院で再度修正の上可決され、再び衆議院へ回付され、1999年5月7日にようやく情報公開法が成立しました。自由人権協会による「情報公開法要綱案」から21年、市民運動結成から20年を経ての成立でした。情報公開法の成立にともない、市民運動と自由人権協会は共同で記者会見を開催。長きにわたった運動を振り返るとともに、声明とこれからの展望を発表しました。

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