[ブログ]電子メールの管理は、本来は原則と手段の問題では?

 毎日新聞の「公文書クライシス 公用メール廃棄 「私的メモ」公開逃れ」は、今の課題を示している点で重要。この間、電子メールをどう管理するとよさそうか、について頭の整理をかねてまとめつつあったレポートがまだ出せていないが、記事などを受けて思い浮かんだことを忘れてしまいそうなので、備忘録的に更新。

 電子メールは、その利用のされ方や広がりからするとどう管理するかが重要な課題であることに疑問の余地はない。しかし、外国並みにすべきとか、恣意的に扱われるのはおかしいと言っても、問題の解決には何の助けにならないことも自明。具体的な対応が必要だが、これを議論するときにはいろいろ注意が必要で、それは結局は原則と手段が合致した機能するシステムを構想することに尽きると思う。

 この間、いくつかの国の関連資料を読んでみていたが、私が理解できる範囲でいえば、基本は行政機関の記録管理に関する基本的な責任は何かから、通信手段・記録生成手段でもあり、記録そのものでもある電子メールの管理をどうするかが導き出されている。そこから電子メールの記録としての特徴を踏まえ、「責任」をまっとうするためのルールやガイダンスが設定され、さらに管理手法や手段が提供されるという段階で構造化されているように理解した。かつ現場レベルに高負担なマネジメントシステムは機能しにくいので、負担を低減し果たすべき責任がまっとうされるような手段や手法の提供を行う、というものもある。

 どのような電子メールが日本でいう行政文書に該当するのかは、単純に比較できないところもある。たとえばアメリカや韓国は、記録管理法体系で管理の対象となる記録と、情報公開法制の下で請求の対象になる記録・情報はイコールではなく、記録管理法体系で管理対象になっていなくても、情報公開請求の対象になり得る仕組みになっている。一方の日本は、公文書管理法も情報公開法も同じ定義の「行政文書」を対象にしており、管理対象=請求対象という関係だ。だから、日本の場合は何を行政文書とするかという部分に過剰にテンションのかかる制度だと言えるだろう。要は、管理されていなければそもそもアクセスする権利が認められない(可能性が高い)、逆から見れば管理対象としていなければ請求されない(請求に対してないと言いやすい)という関係性を生んでいるということだ。

 実際に記録を作成・取得している行政機関は、いわば記録を人質いとっているようなある種の優位性があることが否めない。その中で、外側からの強烈な不信感が行政組織にぶつけられ、実際に不信を増長することを行政組織が行い、しかも発覚した問題の責任を逃れるためにその場の都合で原則やルールを裁量という名のもとに歪めることしたりするから、たちが悪い。こういうことをしていると、行政組織はどんどん自ら持っている無形資源(政策やその形成過程への信頼など)を消耗させていくだけと思うのだけど…

 話を戻すと、公文書管理法の法的要求などを踏まえ、管理すべき電子メールの範囲について、内容で行政文書に該当するかを判断する基準を設けると、行政機関や職員のさまざまな都合に左右されやすい運用になるので、信頼性の極めて低いシステムになると考えるべきなのではないかと思う。現行制度は、行政文書管理ガイドラインで特に行政文書として管理すべきとするものは、以下の2点のみ言及しており、この段階で内容によって個別判断をしましょうという運用を想定しているので、信頼性の低いシステム(言い換えると運用側の都合が反映しやすいシステム)になっている。

「また、例えば、他の行政機関に対する連絡、審議会等や懇談会等のメンバーに対する連絡を電子メールを用いて行った場合は、当該電子メールの内容について、適切な媒体により行政文書として適切に保存することが必要である。」
「意思決定過程や事務及び事業の実績の合理的な跡付けや検証に必要となる行政文書に該当する電子メールについては、保存責任者を明確にする観点から、原則として作成者又は第一取得者が速やかに共有フォルダ等に移すものとする。」

 よく引き合いに出されるアメリカでは、記録管理法体系での「記録」は記録廃棄法の定義が準用され、大雑把に言うと連邦政府機関の活動の記録を指し、すべての媒体を含むものということになる。記録管理に関する指令などを見ると、連邦機関に管理されているメールアカウントのメールの内容は、「記録」に合致すると考えられているようだ。これが「原則」になる。2016年12月31日までに電子メールをすべて電子的に管理できるようにすることが連邦政府機関に要求され、この要求を満たすためNARA(国立公文書記録管理局)が提供した手段・手法を採用している連邦政府機関が多い(昨年末段階で30の機関が採用している。今、この仕組みを勉強中)。これが、原則と責任を充足するための「手段」ということになる。

 大きな枠組みで大雑把なことを言えば、電子メールは管理の必要な政府の記録という原則があり、そこから管理対象とはならない内容のメールを除くという「オプトアウト」方式で電子メールの管理を志向しているということができるかもしれない。電子メールには、歴史文書として永久保存されるものもあるが、一方で、保存期間が来れば廃棄されるものもある。一般的な記録管理のスケジュールでは、NARAが提供した手段・手法のもとでは、7年で廃棄されるもの、3年で廃棄されるものに区分されている。

 一方の日本は、電子メールが行政文書として明確に管理される状態になるには、内容に応じで個別に判断をする「オプトイン」方式での運用を前提にしている。そのため、電子メールは原則行政文書と認識されず、選別されたもののみ行政文書となるよう仕組みが誘導されている。どんなシステムを作っても各行政機関の都合がそもそもの行政文書性の判断のところで介在する時点で、信頼できる根拠がないものにならざるを得ない。さらには、個々人が意識的に行政文書として選別して保管をしていかなければならないシステムは、現場に負担の重いものになりやすい。公文書管理がどう考えても主たる業務ではなく、主たる業務を遂行する上で公文書管理の義務も生じているという職務環境でまともに機能するとも思えない。原則や、それを実行・機能させるための手段・手法の提供もあったものでない。

 結局のところ、日本の電子メールをめぐる議論は、日本の行政文書管理に関する議論が原則を徹底することが行政組織の信頼に不可欠であること、そのためには個人の意識改革や個人の理解だけではなく、それを徹底できる手段・手法が業務環境の中にあるべきであること、という基本的なことが欠落したものが繰り広げられているので、まったく前向きに話が進まず、行政不信をまき散らす結果になっているということなのではないだろうか。

 個人的には、政府は何があってもなくならないわけで、どんなに問題があっても、どんなに信用できないと言っても、残念ながら替わりがいないのだから、何とか前向きに信頼されるための努力をしてもらわないと困ると思っている。そういう前提で考えたとき、職員の研修とか個人の意識改革とか個人の努力にだけ帰結させるようなシステムや、手順や手数を増やして何かしたような気になるようなシステムは、それだけではあまり役に立つとは思えない。しかし、手が動いていたり何かしている風に見えるので、何だかそれでよしとする風潮がさまざまなレベルにあるのも問題。もう少し、まともな議論ができないものか、といつも思いながら風景を眺めている。眺めているだけではだめなので、少し頭の体操もしてみているが、権威主義的な政府の政策形成過程は、「権威」と裏腹にその議論レベルに??なところもあり、頭の体操を私がしてみたとしてなんぼものものか、とちょっとむなしかったりもする。(三木由希子)

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