【ブログ】結局政局がらみでしか選挙ができないということか

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 衆議院の解散風が吹いてきたと思ったら、すでに既定路線のようになっている。加計学園問題も森友学園問題もまだ終わったわけではないところで、臨時国会冒頭解散説が有力で、国会で追求されることを回避した疑惑隠しとの批判も当然のこと。

 特に、両方の問題は記録を廃棄した、あるいは内閣府や官邸側の記録がないというところでは、核心的な部分の記録がないとされているというお粗末な状態なので、国会などで説明を求めないとどこで政府は説明するのでしょう、という案件。

 はっきり言って、記録がないなんでこの上なく恥ずかしいことのはずなのに、それをものともせずに記録がないことを繰り返し説明し、そのことに恥じらいもない人々が権力の中枢やその近辺にいることが、一般人としてはとても恥ずかしい。しかも、あちらにはどんな質問にも「テンプレート答弁」で返すという伝統芸があるので、はっきり言って民主主義の担い手としても恥ずかしいと思うのだが、それをものともしないのだから、一般人としてこの状況はとても恥ずかしい。

 もっとお粗末で恥ずかしいのが、政局でしか選挙ができないのかという衆議院の解散。いつもいつ選挙かわからないので、いつからいつまでが与党と政権の選挙時のマニフェストあるいは公約の実行期間と評価期間なのか、それをしっかり見た上で選挙で選択をするというサイクルが回っていない。急に解散総選挙となって、その場その場で政局的な公約的な政策が出てきたり、何となく利益共同体の人びとは決まった人や政党に投票し、支持政党のない人はその時の風で投票する傾向が生まれ、地に足の着いた政策→実行→評価→選挙というサイクルが回っているとは言い難い。

 これは、日本には、政策→実施→評価というサイクルで地に足をつけて選挙ができる程度に成熟した政治はなく、そういう政党もないということなのか?選挙は、権力を正当化するために権力が活用する手段なのか、権力の正統性を確保するための手段なのか?政治家は、こういう解散総選挙をサバイバルすることが何より重要だと思うが、このような選挙を繰り返して尊敬されると思っているのか?選挙の大義というが、そもそも大儀は政局的な政策選択や信任とどう違うのか?

 内閣の解散権が政局的な解散総選挙のたびにここのところ問題になっているけど、当の政治が政局でしか選挙ができないような体質ならば、そもそもまともな議論にならないだろう。むしろ「総理の専権事項」(実際には内閣だと思うけど)とか高いレベルの政治権限だという、アンタッチャブルな感じが演出されて、批判はされてもあまり深く踏み込まれない領域になっている。この状況が果たして健全なのかといえば、そうではないと考えている人も多いはず。それでも変わらないのは、一部の人のみの関心事だからか、議論の仕掛け方が悪いのか、政治にそういう度量と公益ためのは自らの権限をあきらめるという発想がないからなのか。いろいろ考えたい。(三木由希子)

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