[ブログ]エビデンスに基づく政策決定と情報公開

 20017年衆議院選挙で、政治・行政改革として「『根拠にもどつく政策立案(EBPM)』のもと、統計データや社会科学の知見に基づき、目的や効果を明確に説明できる、統制性を持った政策立案・予算編成に取り組みます」と「政策BANK2017」でうたっていたのが、自民党。

 裁量労働制に関する厚労省データがねつ造されていたという話に、EBPMっていったいどういう意味で使っていたんですか、と聞きたいところ。裁量労働制のデータは、ミス、不適切、ねつ造、虚偽などいろいろな言い方がされているが、同じような問題が常態化しているというべきだろう。

 裁量労働制が、成長戦略の中で規制改革という文脈で政治的に要請され、厚労省がその具体的な政策検討の受け皿になってきたことは周知の通り。規制改革会議は、議論の進め方について厚労省と労働政策審議会の取り組みを注視するとか、検討状況を聴取しつつ必要なら規制改革会議としての意見を示すなどして、積極的に働きかけると表明していたのが、2013年12月のこと。結局、結論ありきでいかに労使間で隔たりの大きい問題をどうまとめるかが、厚労省に対する政治的プレッシャーだったということになる。

 こうした政治案件だけでなく、政策的、事業的に結論ありきでいかにそれを後付けで根拠づけるか、あるいは望ましい結論に見合うデータにするか、ということで、不自然や微妙、根拠不明、変な変数が入ったようなデータが使われることはよくある。公共事業では常に、根拠となるデータが問題になり、専門家によって同じデータから異なる結論が導き出せれることは良くみられる光景だ。エビデンスがないのに、これから調査するから先に結論をというのもあったりする。社会保障分野や経済財政に目を向ければ、出生率、GDP成長率などの見通しは政策決定を正当化するのに都合が良さそうな数値にデータが作り込まれ、達成されないのが当たり前という前提で数字合わせしているとしか受け取れない状況がずっと続いている。

 審議会などの第三者機関は結論がある程度決まっている中で、その結論を正当化することを任務にしているみたいなところもあるので、そもそも議論に際して結論に望ましいデータや資料しか出てこないことも常態化している。委員が、お客さん状態で与えられた資料だけで議論するというスタンスだと、それが助長されることになる。加えて、専門家として自前のエビデンスやデータを持っていないと、行政頼みになるし、「先生」と持ち上げてくれる環境にいると、あまり突っ込んだことは言わなくなる、逆に会議で行政をほめるという光景も時々見かけるところ。

 こういうデータの創作と、創作データでもお墨付きを与える専門家の存在に助けられた事業決定や政策決定は、結構あるだろう。

 個人的にはEBPMはとても大事だと思っている。ただ、それに耐える組織や政策決定過程にそもそもなっていないところを克服しないと、都合のよいデータだけ使う、あるいはないならそれらしいものを創作する、という状況は変わらず、むしろデータをいかに創作するかという技術にだけたけていくようになると思う。

 いくつか情報公開やアカウンタビリティという観点から例を挙げると、まず、調査研究や基本的な調査を外注すると、報告書の根拠となるデータの納品を受けていないことがある。政策決定や事業決定の根拠が行政文書として存在しないことになる。

 二つ目に、調査やデータを取るときに専門家の助言を受けながら行っているかという問題と、仮に助言を受けている場合があっても、その専門家が誰であるかは情報公開請求しても公開されないという問題だ。専門家が科学的知見から、独立して党派的・政治的介入とは離れて調査やデータ作成を科学的な方法論で行っていかないと、いつまでたってもデータの創作はやまないだろう。

 ただし、仮に専門家が関与したとしても、今の社会では「御用学者」が日常語化しているのだから、誰が関わったのかがわからないと、データの信頼性は常に論争的になるだろ。ところが、この「誰」は、通常専門家が法的に「公務員」ではないので、あらかじめ公開が予定されていない限り名前は公開されない。過去に、情報公開請求に対して非公開決定をし、情報公開・個人情報保護審査会がその判断を妥当としていることと、訴訟をしても情報公開法の今の規定だと勝てる余地がほとんどない。つまり、専門家がどんな仕事をしようと誰かを明らかにしないで済む環境は作れるので、どんな仕事のレベルでも行政と法律が守ってくれる。

 3つ目は、政策決定や事業決定のプロセスが、選択肢を柔軟に検討する、あるいは諮問事項や検討事項を決める前段階で多様な意見調整や反映をするようにしないと、データが創作される事態は避けにくいと思う。コンサルテーションなど、パブコメとも違う意見聴取プロセスと、その意見をどう反映・扱ったかをオープンにしていくことがそもそもあった方が良い。諮問事項や検討事項が決まった後は、それをいかに通さないか、いかに通すかの戦いにしかならないのは明白。

 それに、政策や事業決定はもともと選択の結果という側面がある。常に選択肢は一つではなく、複数あるし、その中で何かに決めることもまた、政策や事業を決定するには必要だ。だから、選択した理由だけを説得的に残す、あるいは形式的にほかの意見を検討したことを、決めたことの正当性にだけ使うということはやめた方が良い。何を選択せず、なぜ選択しなかったかということがわかるように、決定過程を進めるべきだと思っている。それを情報公開して、検証プロセスをきちんと回す政策サイクルがないと話にならないのではないか。

 加えて、昨今では政治的リーダーシップで進められる政策や事業決定がまともに記録されていないという政治的無責任と、政治的リーダーシップなのか政治介入なのかがそもそもボーダレスになっているという問題もある。こちらは、ますます記録化されにくくなるよう、行政文書管理ガイドラインが改正された。

 率直なところ、そんなに自信がないんですかと、政治家、行政、専門家に言いたいところ。

 すべての政策や事業決定プロセスがまともではないなどというつもりは毛頭ないけど、でも昔から審議会行政の問題とか言われていることはそれなりに理由がある。会議公開や資料の情報公開、議事録の作成と公開など、長いこと市民社会が格闘している問題は、政策や事業決定プロセスの硬直性がその根っこにあって、少~しだけ変わってきているものの、体質改善にはかなり遠いのだと思う。情報公開しない、記録をしないことで、政治と行政と専門家がお互い守りあう。当事者にとって美しい世界は、世間にとっては醜い世界ということか。

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