選挙の仕組みと表現の自由




 行きがかり上というか、選挙の仕組みを変えるという活動に関わっている。選挙の仕組みは考えてみるとすごく幅の広いテーマだ。

 選挙制度(国政だと小選挙区、比例代表、中選挙区の混在、自治体だと議員選挙は大選挙区、中選挙区(政令市や都道府県議会の議員選挙)など)というそもそもの問題もあるし、立候補するときの高すぎる供託金問題、選挙運動・活動の制約・禁止などなど。そもそも民主主義というか(なんで「主義」になっているのか非常に疑問)、民主制は手続という一面もあり、選挙はまさに手続で権力の正統性の根拠でもある。

 でも、民主制を支えるものとして機能しているのかといえば、国政では死に票の多さ、民意を正しく反映していない会派構成、地方に目を向ければ議員の成り手がいない人材難もあり、特定の層しか政治の場に出てこないというような、社会の実際の構成とはかけ離れた実態があったり、選挙が選択する仕組みとして機能しているのかなど、一体民意は何なのかということにも疑問がある。

 いろいろなことに問題があるが、最も不幸なのは選挙運動・活動の制限がもはや素人には判断できないレベルの分かりにくさ。ネット選挙が部分的に解禁し、マニフェストの配付も部分的に解禁。この部分的というのがややこしい。これはダメ、これはセーフというのも、いちいち気にしてられないというか、そこまで気を使って政治に関わりたくないと一般市民が思ってもそれは極めて自然だと思う。だから、仕組みを変えようという市民の側の動きはとても大事だと思っている。

 この日本の選挙制度について、4月に来た国連の表現の自由特別報告者は「表現の自由」の制約という言い方を最終日の記者会見でしていた。それはごもっともだと思う。もともと、表現の自由は、情報を受け取る自由を含むし、表現をする前提としての情報へのアクセスを含む。表現の自由を保障することは、主権者として物事を判断するための情報を得、意見表明をする自由を持つという根本的な権利に関わっている。

 日本の選挙運用規制は、情報を受け取る自由も意見表明をする自由もとても制約している。しかし、選挙で投票し、権力に正当化を与えるものとして、主権者だとされる。表現の自由といいながら、結局、個別の制度の中ではとても窮屈に制約され、情報がコントロールされ、自由な言論空間や情報空間を「正当な理由がある」ということ制約していく。何だか、とても居心地が悪い。

 日本の中の議論は、こういう時個別の選挙制度の細かい議論、技術的な議論に陥りがち。何を基本的権利として擁護するのかという視点ではないので、個別の規定をどういじると良いかとか、どう調整するかという視点になり、結局法制度がつぎはぎのものが出来上がる。
 
 そういえば、4月に来た国連の表現の自由特別報告者は昨年は表現の自由と公益通報者保護についてのレポートを国連総会に提出している。世界に目を向ければ、公益通報者保護は表現の自由の問題として議論されている。日本は、この法制度について活動している専門家と話しても、こういう視点は「??」という感じ。

 報道の現場や市民活動の現場を中心に表現の自由が問題になっているけど、実際のところ社会システムとして表現の自由が制約されていることには鈍感なのかなと思う。そうだとするととても困った。(三木由希子)

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